銀色テントむし660
デカ盛り・SL・道の駅!このキャンピングカー「テントウムシ」ですか?いいえ、「テントムシ」です。家族4人、軽キャンカーで日本全国行脚します。
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銀色テントむしで古城めぐり・・・佐久市「芦田(あしだ)城址」
戦国時代に真田氏を武田信玄に推挙し、江戸時代には徳川幕府に尽力した依田(よだ)氏の居城だった城跡を歩きます。
蒸気機関車デカ盛り道の駅を求めて毎週末、家族旅行しているのにキャンプ歴のない軽自動車キャンピングカーeK-Campテントむし屋根開き(ROTUS(ロータス)RV販売 )」銀色テントむしテントむしオレンジ乗りのnorizoです。

中部横断自動車道の佐久南(さくみなみ)インターを南に出て約1キロで国道142号線を西へ約14.3キロ、白樺高原入口交差点から県道40号線を南へ1.1キロ進むと東側の路地に入る案内板が目に付きます。
もしも行き過ぎてしまっても、もう1つ先の路地からも戻ることが出来ます。
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路地に入ったら指示板どおりに坂道を登っていくと、舗装が途切れるのと共に3台程度の駐車スペースが準備されており、その先は殆ど歩くことなく登城することが出来ます。
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ネットの情報で大きな看板があると知っていたのですが、看板手前の樹木が大きくなりすぎて駐車スペースからしか眺めることが出来ません。
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芦田(あしだ)城は鎌倉時代に滋野(しげの)系依田(よだ)氏により築城され、ここに移り芦田氏を称して居住しました。
天文10年(1541年)、武田信虎(たけだのぶとら)は諏訪頼重(すわよりしげ)とともに小県(ちいさがた)郡に侵入すると、諏訪頼重は帰路に芦田城に侵攻し、10歳に満たない幼少の芦田信守(あしだのぶもり)を生け捕りにし、主従関係を誓わせると、芦田氏は武田氏の軍門に入りました。
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天正10年(1582年)に織田信長(おだのぶなが)の侵攻により武田氏が滅ぶと、佐久地方は混乱し、あちこちの豪族が勢力を強めましたが、芦田氏は織田方・徳川家康(とくがわいえやす)に味方して、佐久地方の治安改善に努めました。
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芦田氏は、徳川に反対する勢力を攻略し佐久地方は芦田氏に統一され本拠を信濃春日城にうつしました。
元亀元年(1570年)に春日城で生まれた芦田康国は、父・依田信蕃(よだのぶしげ)の功績から十四歳で十万石の小諸城の城主となり、松平の氏名と家康の康のを徳川家康からもらって、松平康国(まつだいらやすくに)となりました。
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松平康国が21歳で戦死すると、弟の康貞(やすさだ)がのこりましたが、小諸城から松井田城に移され、その後、藤岡城にうつされました。
江戸時代に入ると策略に陥れられた依田松平氏は失脚、真田と並び名を馳せた依田氏の時代に幕が下りました。
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現在の芦田城跡には車道が設けられ、展望台からの眺めは見事で、昭和42年(1967年)には町指定文化財に指定されています。
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□芦田(あしだ)城
 TEL:なし
 長野県北佐久郡立科町茂田井273
 開放時間 指定なし
 休園日:無休
 駐車場あり


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2018/04/14 8:00 天候:晴れ
測定値:未測定(測定器具:エアカウンターS)
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)
  

テーマ:歴史・文化にふれる旅 - ジャンル:旅行

銀色テントむしで古城めぐり・・・市川市「国府台(こうのだい)城址」
江戸川を渡った先は東京都と言う好立地にある大きな公園は、戦国時代には多くの兵士が命を落とした城跡でした。
蒸気機関車デカ盛り道の駅を求めて毎週末、家族旅行しているのにキャンプ歴のない軽自動車キャンピングカーeK-Campテントむし屋根開き(ROTUS(ロータス)RV販売 )」銀色テントむしテントむしオレンジ乗りのnorizoです。

京成電鉄の国府台(こうのだい)駅から県道1号線を北へ、北総線なら矢切(やぎり)駅から県道1号線を南へともに約1.2キロ、国府台病院の入口交差点から300mほど西に進んだところにあるのが国府台(こうのだい)城址のある「里見公園(さとみこうえん)」です。
駅からやや距離がありますが、交差点入口付近まで本数の多いバスが通っているので公共交通機関でのアクセスにも優れていますが、公園の先川沿いの突き当りを北に進んだところに無料駐車場もあります。
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国府台城は、南北朝時代に鎌倉公方派であった扇谷上杉(おうぎがやうえすぎ)家の家臣・太田道灌(おおたどうかん)が文明10年(1478年)末に築城しました。
時期的には武蔵千葉氏を継承した千葉自胤(ちばよりたね)を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まるとされます。
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里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。
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その後、室町時代天文7年(1538年)、足利義明(あしかがよしあき)は里見義堯(さとみよしたか)等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱(ほうじょううじつな)軍と戦いました。
しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。
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続いて永禄7年(1564年)、里見義堯の子・義弘(よしひろ)は、再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し士気を失い敗退、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討死する者5千名と伝えられますが、里見軍戦死者の亡霊を弔うものもありませんでした。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐で北条氏を滅ぼすと、徳川家康(とくがわいえやす)が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。
江戸時代後期の文正12年(1829年)になって里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。
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明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。
昭和33年(1958年)、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました。
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□国府台(こうのだい)城
 TEL:047-372-0062(公園管理事務所)
 千葉県市川市国府台3-9-1
 開放時間 8:00-17:00
 休園日:無休
 駐車場あり


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2018/03/10 10:30 天候:晴れ
測定値:未測定(測定器具:エアカウンターS)
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)
  

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銀色テントむしで古城めぐり…鹿嶋市「塚原(つかはら)城址」
戦国中期の大剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)の一族が有したと言う城跡をズキマル君と歩いてみます。
蒸気機関車デカ盛り道の駅を求めて毎週末、家族旅行しているのにキャンプ歴のない軽自動車キャンピングカーeK-Campテントむし屋根開き(ROTUS(ロータス)RV販売 )」銀色テントむしテントむしオレンジ乗りのnorizoです。

2011年に堺雅人さん主演でNHKのBSで放送された「塚原卜伝」のDVDをレンタルで見つけて閲覧し、その景色を肌で感じたいと思っていました。



塚原卜伝を含む塚原氏は、全国の鹿島神宮の総本社を有する鹿島氏に属する武家でした。
鹿島神宮は、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(たけみかづち)と言う武神を祭神としており、塚原卜伝は「神道流(のちに新道流)」を世に広めました。
そんな塚原卜伝の墓は、臨海大洗鹿島線の鹿嶋サッカースタジアム駅の西、霞ヶ浦(北浦)の東の茨城県鹿嶋市須賀にあります。
北浦沿いの市道18号線から2本東側を南北に走る道路沿いに「剣聖・塚原卜伝の墓入口」の表示があるのでそれに沿って進みます。
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塚原卜伝の墓地には駐車場もあるのでクルマでの訪問も安心です。
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武術の嗜みは、ズキマル君がちょっとだけ柔道、norizoがちょっとだけ合気道の経験程度しかありませんが、「道」の頂点を極めた大人物に感銘を受け、手を合わせます。
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さて、本題の塚原城は塚原卜伝の墓の少し北側にあります。
目印としては墓地に入るときに使った大通りの少し北側から側道に入る舗装道を「白幡神社(茨城県鹿嶋市須賀422-1付近)」まで進み、その先の砂利道を北に進みます。
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かなり細い急勾配の砂利道だったので、白幡神社手前にクルマを乗り捨て、そこからは徒歩で進んで見ます。
北に向かって坂を越え、畑を過ぎると小さな標識で「塚原城」の存在を唯一知ることができます。
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徒歩で訪問したので気づきましたが、クルマだったら見逃してしまう解説のサイズと位置です。
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この先は私有地と言うことで、本来立入り禁止とのことですが、幸い農作業をしていたご主人がいらしたのでお声掛けしてみると、城跡の場所を教えてくれました。
城跡は、畑と解説板の間のあぜ道を進み、廃タイヤを載せた杭の所から北に入ったところだそうです。
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しかし、その先はひたすら藪です。
訪問したのが冬季だから良かったのですが、夏場だったら入口にも気づけないかもしれません。
5分ほど踏み込んだところで城郭の一端が確認できたことを機に、勝手に納得してそれ以上の立入りはやめておくことにしました。
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塚原城は、大掾(だいじょう)氏の一族・鹿島(かしま)氏の庶流・塚原氏の居城でした。
鹿島氏15代・義幹(よしみき)の子・安幹(やすみき)がこの地に入部して塚原氏を称し、塚原城を築きました。
安幹は、鹿島神社神職の卜部(うらべ)家・吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきたか)から養子として迎え、高幹(たかみき)を名乗らせました。
1532年に家督を継いで塚原城主となりましたが、妻の妙(たえ)と若くして死別し、養子に家督を譲って自身は修行の旅にでました。
一方の塚原城は、鹿島氏の家臣・小峯氏が塚原四郎と名乗り城代だった天正18年(1590年)に、佐竹氏に攻撃され、陥落したそうです。
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ちなみに、塚原卜伝が鍋蓋で若き宮本武蔵の一撃をいなしたと言う逸話はフィクションだそうで、ちょっと残念な気持ちになります。
残念ついでに言うと、こちらの城跡は市が案内板を付けているにもかかわらず整備されておらず、危険箇所が多い上に私有地ですので、現在のところご訪問はおススメできません。
地元住民の皆さんからは愛される史跡ですので、いつか、公園化して公開いただきたいものです。


□塚原(つかはら)城
 TEL:なし
 茨城県鹿嶋市沼尾9付近
 開放時間 常時開放
 休園日:無休
 駐車場あり


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2018/01/14 8:30 天候:晴れ
測定値:未測定(測定器具:エアカウンターS
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)
 


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